尼子十勇士(あまごじゅうゆうし)は、戦国大名尼子氏滅亡後に尼子氏の復興に勤めたとされる10人の勇士である。この10人は、尼子晴久が部下4万人余りの中から選び出した勇力の優れた人物という。山中鹿之助(山中幸盛)を筆頭とするが、その構成員は幸盛を除けば不定であり、時代によっても異なる。また、名前の最後に皆「介(助)」が付くことから「尼子十勇十介」ともいう。

十勇士の成立

尼子十勇士は、明治時代に立川文庫から発刊された『武士道精華 山中鹿之助』によって有名になったが、立川文庫の創作ではない。それ以前から、その存在は知られていた。 しかしながら、幸盛が活躍していた当時の史料には「尼子十勇士」の名称は見られない。

十勇士の存在がいつ頃から信じられえていたか定かでないが、史料に初めて出てくるのは、延宝5年(1677年)に発行された『後太平記』である。ただし、十勇士と明記されている人物は、五月早苗介(助)、寺元生死助、横道兵庫介、山中鹿之助幸盛の4人だけであり、その他の人物が十勇士であったかどうかは判断できない。

十勇士すべての名が史料に出てくるのは、享保2年(1717年)に刊行された『和漢音釈 書言字考節用集』である。この書は、日常語の用字、語釈、語源などを示した、いわゆる国語辞典のようなものである。そのため、この時代に「尼子十勇士」という名称が一般的に通用するものであったことが分かる。正徳3年(1713年)10月、松山藩士であった前田市之進時棟と佐々木軍六が、幸盛の死を哀れみ建立した墓碑にも「尼子十勇」の文字が刻まれている。明和4年(1767年)に湯浅常山が発行した戦国武将の逸話集、『常山紀談 』にも10名の勇士の名が連ねてある。

しかし、これら史料は、幸盛以外の人物の記載は乏しく、十勇士の面々がどういった性格で、どんな活躍をしたか等を知ることができなかった。十勇士の人物像について始めて具体的に記述された史料は、文化8年(1811年) - 文政4年(1821年)にかけて刊行された『絵本更科草紙』である。

この書は、幸盛の母である更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語である。書と共にこの話は全国的に広まったようであり、この後には、十勇士を題材にした浮世絵の描画や歌舞伎の上演、また十勇士が描かれた絵馬が神社に奉納されるなど、世間一般にこの話が浸透していったことが分かる。

明治時代に入ると、先の『絵本更科草紙』と同じ内容で、表題を『尼子十勇士伝』とした書が刊行される。明治44年(1911年)12月、『絵本更科草紙』の内容を簡略化し、大衆向けに噛み砕いた文で表した書、『武士道精華 山中鹿之助』が立川文庫より発行されると、尼子十勇士の名は一躍有名になる。昭和26年(1951年)には『大百科事典』にも掲載された。現在は、『広辞苑』にもその項目がある。

構成員

尼子十勇士の構成員は、山中幸盛を除けば不定であり、時代によっても異なる。

『武功夜話』には、山中鹿之介に従う一騎当千の武者、伯・雲・但の牢人衆が記載されている。

人物の信憑性

構成員の名前はすべて駄洒落じみたものとなっており、その実在性が疑問視されていた。しかし、自ら著した書状等が現存しており、実在することが確実な人物もいる。また、十勇士が活躍していた当時の資料にその名が確認でき、存在の可能性を否定できない人物もいる。

実在する人物

次の3名は、自ら著した書状等が現存しており、実在することが確実な人物である。

山中幸盛(山中鹿之助、山中鹿助、山中鹿之介、山中鹿介)
秋上宗信(秋宅庵助、秋上伊織之助、秋宅庵之助、秋宅庵介、秋上庵介、秋宅庵之介)
横道秀綱(横道兵庫介、横道兵庫助、横道兵庫之助、横道兵庫之介)

実在の可能性がある人物

現存する当時の書状等では存在が確認できないが、軍記史料や江戸時代初期の書状等にその名が記載され、実在の可能性がある人物もいる。

五月早苗介(五月早苗之助、植田稲葉助、植田早苗助、上田稲葉之介、植田早苗之助、五月早稲之介、皐月早苗之介、皐月早苗之助、植田早苗介、植田早稲之介、植田早稲之介)
  • 元亀元年6月8日、吉川元春から掘立壱岐守宛への書状に、「上田早苗助」が同年6月3日に佐陀勝間城を攻撃して討ち死にしたと記載される。
  • 尼子氏の家臣の知行高を記した文書、『尼子家分限牒(あまごけぶんげんちょう)』に「五月早苗之介」の名前がある。備中国の内、8,013石を所領した。
  • 『雲陽軍実記』に「五月早苗介」の名が記載されている。
藪中荊助(薮原茨之介、藪中茨之助、藪中荊之助、藪中荊介、藪中荊之介)
  • 『雲陽軍実記』に「藪中荊之助」の名が記載されている。
寺本生死助(寺本生死之助、寺本生死介、寺本生死之介)
  • 『太閤記』にその名が記載される。元の名を寺本半四郎といって、山中甚次郎(山中幸盛)、秋宅甚介(秋上宗信)と共に、名前を山中鹿介、秋宅庵之助、寺本障子之助と変えた。
井筒女之介
  • 『陰徳太平記』に吉川元春配下の境又平春久の注釈に「後に井筒女助と号す」と記載がある。

脚注

出典

参考文献

  • 槇島昭武『和漢音釈 書言字考節用集 第十巻 数量、性氏』(1717年)
  • 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第六巻』(早稲田大学出版部 1913年) 中に『後太平記』を含む
  • 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第七巻』(早稲田大学出版部 1913年) 中に『後太平記』を含む
  • 湯浅常山 原著『戦国武将逸話集-注釈『常山紀談』巻一〜七』大津雄一・田口寛 訳注(勉誠出版 2010年) ISBN 978-4-585-05441-2
  • 栗杖亭鬼卵 著・石田玉山 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 初編 巻一之〜五』(群玉堂河内屋 1811年)
  • 栗杖亭鬼卵 著・石田玉山 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 後編 巻一之〜五』(群玉堂河内屋 1812年)
  • 栗杖亭鬼卵 著・一峰斎馬円 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 三編 巻一之〜五』(河内屋茂兵衛 1821年)
  • 和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 上巻』(春陽堂 1883年)
  • 和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 中巻』(春陽堂 1883年)
  • 和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 下巻』(春陽堂 1883年)
  • 雪花散人『武士道精華 山中鹿之助』(立川文明堂 1911年)
  • 東京帝国大学史料編纂所 編著『読史備用』(内外書籍 1933年)
  • 新村出 編『広辞苑-第五版』(岩波書店 1998年)
  • 妹尾豊三郎『尼子盛衰人物記』(広瀬町観光協会 1985年)
  • 島根県立古代出雲歴史博物館『戦国大名 尼子氏の興亡-平成二十四年度企画展』(島根県立古代出雲歴史博物館 2012年)
  • 香川景継『陰徳太平記 全6冊』米原正義 校注(東洋書院、1980年) ISBN 4-88594-252-7
  • 河本隆政『尼子毛利合戦 雲陽軍実記』勝田勝年 校注(新人物往来社 1978年)
  • 小瀬甫庵『太閤記-新日本古典文学大系60』檜谷昭彦・江本裕 校注(岩波書店 1996年) ISBN 4-00-240060-3
  • 岡谷繁実『名将言行録(一)〔全8冊〕』(岩波書店 1943年) ISBN 4-00-331731-9
  • 広瀬町教育委員会 編集『尼子氏関係資料調査報告書』(広瀬町教育委員会 2003年)
  • 広瀬町教育委員会 編集『出雲尼子史料集(下巻)』(広瀬町教育委員会 2003年)
  • 米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社 1989年) ISBN 4-404-01648-4
  • 吉田蒼生雄 訳注『武功夜話(第四巻)第一巻』(新人物往来社 1987年) ISBN 4-404-01396-5

豊原国周による浮世絵「「尼子十勇士面々会合主家再興評定図」「寺元生死之助 沢村訥升」「荒浪碇之助 中村翫雀」「横道兵庫之助 尾上菊五郎」」

日本一の兵「幸村」|九度山・真田ミュージアム

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