朝倉 氏景(あさくら うじかげ)は、南北朝時代の武将。朝倉氏の第3代当主。第2代当主・朝倉高景の子。

生涯

父・高景と同じく、文和4年(1355年)2月15日の京都の合戦において、貞宗(相州貞宗か)の名刀で奮戦し、足利尊氏から偏諱を賜り、氏景と称するようになったとされるが、この時朝倉氏は南朝側に属して尊氏と敵対していたため、尊氏が氏景に偏諱を与えたという話は怪しい。

その後、貞治の変で主君・斯波高経が室町幕府から討伐の対象とされると、父・高景が幕府側に通じて所領を安堵され、一時期斯波氏を離れている。康暦年間に斯波氏が越前守護に復帰すると、斯波氏の家臣に復帰した。

その後、摂津の合戦でも戦功を挙げ、足利義満から「大功」の法名を賜ったとされる(『朝倉始末記』末巻「日下部系図」より)。

しかしその後、朝倉氏は幕府や主筋たる斯波氏から冷遇されるようになり、明徳年間の斯波氏重臣を記した「相国寺供養記」に氏景など朝倉氏の名前は記載されていない。

応永8年(1401年)、弘祥寺に仏殿を建立し、一乗谷に熊野権現を勧請した。これが朝倉家の一乗谷と関係する最初の事例である。

応永11年(1404年)に死去、享年66。家督は子の貞景(大心宗忠)が継いだ。

脚注


朝倉宗滴(朝倉教景)とは 1分でわかる 武将人物情報・史跡情報「歴史観」

【麒麟がくる】越前の領主・朝倉義景はマムシと真逆!?のらりくらりと光秀を翻弄する ENCOUNT (2)

信長を土下座させた男!?朝倉氏最後の当主・義景が住んだ「一乗谷朝倉氏遺跡」 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

なぜ従三位だと勝てないのか&朝倉義景と友達になりました 英傑大戦のコミュニティ大戦組

チャッピーシャロン on Twitter